中の棚商店街は、広島の都心八丁堀近く、
相生通り(電車通り)と本通・金座街に
囲まれた
縦横5本の街路からなる商店街で、
『グルメ&ファッションの街』です。
おいしいお食事の店、おしゃれなブティックや
美容院が揃っています。
この場所には広島城築城時から平田屋川沿いに赤御影石の敷きつめられた魚問屋が集まり、「東魚屋町」という地名から通称「うおのたな(店・棚)」と呼ばれていましたが、1619年に西魚屋町(現在の袋町付近)と京橋町に魚市場が設けられたため、3ヶ所の魚市場の真ん中の店という意味で「中の棚」と呼ばれるようになりました。
中の棚商店街となってからは街の歴史をコンセプトにした街路整備が進み、路面は赤御影石をイメージしたピンクのカラー舗装となっており、商店街各入口には中の棚のロゴが施された赤御影石が敷き込まれています。さらに、放送設備や防犯カメラを装備した独自のLED街路灯が立ち並び、中の棚歴史散歩パネルを各所に配置しており、来街者が安心安全に歩いて楽しめる快適な空間を演出しています。
商店街のイベントとしては、6月に「中の棚運気を揚げん祭」、9~10月に「秋のおもてなしキャンペーン」を実施、11~1月には広島市のライトアップ事業に参加しています。
「運気を揚げん祭」は、商店街にある中の棚稲荷神社の祭礼にあわせて毎年6月に実施しています。神社の福引に協賛し、マスコットキャラクター「九美の狐」のフィギュアを作成して景品にしたりしています。商売繁盛・縁結びの神様としてご利益がありますように。
「秋のおもてなしキャンペーン」では、映画観賞券やお買物・お食事券があたる懸賞を実施して、街をあげての「おもてなし」を展開します。
また、年間を通じて商店街連合会が実施する「とうろう流し」や「ゆかたできん祭」「えべっさん」などに積極的に参加して協力しています。
広島市中の棚商店街振興組合
事務局長 尾﨑頼寿 (TEL : 090-5371-4420)
なかのたな歴史散歩
なかのたな歴史散歩【一】
安土桃山時代、広島誕生とともに中の棚は生まれました。
時は安土桃山時代。天正17年(1589年) 4月、毛利輝元公は広島城築城に着手します。
広島は築城や町作りで賑わい、広島城の外堀(八丁堀)と海とをつなぐ運河(堀川)として掘られた平田屋川沿いに魚市場が誕生しました。名前は「うおのたな(店・棚)」。現在の「中の棚商店街」のことです。
最初は小さな魚市場でしたが、場所が良いこともあり、たくさんの人が集まるようになると市場の西側に、もち屋や八百屋など食べ物を扱うお店が軒を並べるようになりました。
この通りは「たてまち」と呼ばれていました。
因みに、その昔、城下町では東西の路を「横町」、南北の路を「たて(立・縦)まち」と呼んでいたということですから、広島の「たてまち」もそれに倣ったのでしょう。
中の棚のロゴと魚のデザイン
平成7年(1995年)中の棚商店街のデザイン整備をするにあたり、江戸時代の中の棚には魚市場があり、「うおの棚」として親しまれていたことから魚をモチーフにビジュアルデザインを策定しました。
なかのたな歴史散歩【二】
江戸時代の中の棚は赤御影石の石畳
「昔、もと双葉映画館のあった通りは旧魚市場の本舞台で、そのかみはいちめんの石畳であった。幅30センチ、長さ90センチあまりの石が敷きつめられて、その石と石との間に水がたまって中の棚特有の情緒が流れていた。あの赤味がかった石畳はどこに運ばれたのか、いまでは一枚としてその姿を見ることはできない。」
~昭和43年(1973年)刊「続がんす横丁」たくみ出版・薄田太郎著より
中の棚には魚市場があったことから「うおのたな」と呼ばれるようになりましたが、元和5年(1619年)の浅野長晟公入城の頃には、西魚屋町(現在の袋町付近)と京橋町(現在の南区京橋町)にも魚市場が設けられます。一か所しかなかった「うおのたな」が三か所になったことから三つの魚市場の真ん中に位置する「うおのたな」を「なかのたな」と呼ぶようになりました。
「店」も「棚」も”たな”といいますが、「なかのたな」が棚という文字を使うようになったのは平田屋川に橋が、南から順に富士見橋、竹屋橋、平田屋橋と名前がつけられ、そのとき「なかのたな」の表記が「中の棚」と記されたことから始まったと考えられています。
記録によると幅30cm、長さ90cmの赤御影石が一面に敷き詰められており、雨上がりの水たまりに月が映る様は、とても風情があったそうです。
平成28年、改装中の店舗から石畳の石を発見
昔懐かしい広島の姿を今に伝える「続がんす横丁」(1973年刊)に記されているものの、第二次世界大戦中に撤去され、その実物はどこにあるのか不明だった石畳の赤御影石が、平成28年(2016年)4月、改装中の店舗の床下から発見されました。
場所は改装中だった旧二宮税理事務所。この発見に、田中昭雄立町町内会長(当時)は、「亡くなった二宮氏が生前に赤御影石の存在について話していた。戦時中に石畳を撤去することになった時、石を分けてもらって洋装店(当時)の土間に敷きつめたということだったが、本当にあったとは・・・。今回こうして皆さんに見てもらうことができてうれしいです。二宮氏も喜んでいることでしょう。」と感慨深げに語りました。
出土した石は、大半が和食店となった店内に埋め戻されたほか、3個の石が中の棚神社と中の棚商店街で展示用に保存されることになりました。
展示用に保存した石畳の石。石材屋で半分だけ磨いてみました。ほのかなピンク色の赤御影石です。石材屋によると、能美島産の国会議事堂に使用されたような高級品赤御影石ではなく、白木町あたりで産する中級品ではないかとのことです。
中の棚神社境内の「中の棚路面歴史モニュメントととろじい」内に出土した赤御影石を配置。
令和3年(2021年)、中の棚商店街では中の棚神社境内の「中の棚路面歴史モニュメントととろじい」を整備しました。ととろじいでは江戸時代の赤御影石をはじめ、平成8年(1996年)に整備された旧カラー舗装に使用されていた「中の棚のロゴマーク」「魚へんの漢字」「日本と中国の子供たちが描いた魚の絵」などが文様化された石を展示しています。
なかのたな歴史散歩【三】
平田屋川にかかっていた中の棚橋
広島城の外堀(八丁堀)と海とをつなぐ運河として掘られた堀川の平田屋川の境目となる中の棚橋は、水位調節も兼ねた水門(唐樋)付きの橋だったと考えられています。
街路整備の際に江戸時代の遺跡を発見
広島県文化財団協会会長 広島大学名誉教授 楠見久先生
平成7年(1995年)〜平成9年(1997年)にかけて、中の棚商店街はさまざまな街路整備を行いましたが、その際、地下約80cmくらいのところに護岸の御影石がでてきました。
そこで平成8年(1996年)12月、広島県文化財団協会会長 広島大学名誉教授 理学博士 楠見久先生の立ち会いのもと発掘調査を行ったところ、発見された石は江戸時代の御影石で平田屋川の護岸に使われていたことが判明しました。これまで文献で、このあたりに中の棚橋があったことはわかっていましたが、遺跡が発見されたことで史実が裏付けられました。
江戸時代、町民が使用したと思われる陶磁器や鉢の破片、壁の補強、亀裂防止などのために、壁土に藁屑(わらくず)、糸屑を混ぜ込んだ”すさ”の漆喰、食用にしていたと思われる”にし貝”の貝殻なども出土しました。護岸の御影石は現状保存して、そのまま埋設しました。
中の棚橋の唐樋
中の棚の唐樋は、広島城の外堀と平田屋川の分岐点に存在し、海の潮位の変化から外堀の水位を一定に保つ唐樋門が設けられ、海からの船の進入を防ぐ工夫もされていたようです。広島城築城時、毛利輝元は築城資材の運搬と外堀の役割を担う人工の堀川を城の東側に切り開き、広島湾と城下を結ぶ運河として機能していたようです。
中の棚橋と唐樋の存在が確認できるのは広島町新開絵図です。また、知新集によると中の棚橋は『唐樋の上小板橋』とありました。唐樋がある樋堂の上(北側)に中の棚橋があります。唐樋門も創設時より改良され、新しい南蛮樋として明記されています。
(唐樋と中の棚橋の研究は、平成24年(2012年)にカーサ商業建築設計の山本胖氏と広島工業大学の商業デザイン実習で実施されました。)
路面に中の棚橋をイメージしたデザイン
中の棚橋のモニュメント
平成8年(1996年)の街路整備工事では、ほぼ当時の場所に中の棚橋をイメージしたデザインの御影石舗装を施しています。説明板を設置し、横に記された「遺跡中の棚橋」の書は東大阪市在住の書家 可能如雷(喜良)氏によるものです。
なかのたな歴史散歩【四】
江戸時代、中の棚と金座街の間には平田屋川という人工の堀川がありました!
江戸時代、相生通りは広島城の外堀の八丁堀で、中の棚橋を挟んで南に延びる人工の堀川の平田屋川が中の棚と金座街の間から南は並木通り(昔の新川場)方面に続いていました。
中の棚商店街で当時を再現するジオラマ作成
平成26年と27年(2014・2015年)に中の棚商店街では、穴吹デザイン専門学校に依頼して当時の川や街なみを再現するジオラマを作成しました。現在と重ね合わせてみると不思議です。
なかのたな歴史散歩【五】
江戸末期に一度だけ行われた幻のお祭り「砂持加勢」
江戸時代末期、城下をあげて川ざらえを行うお祭り「砂持加勢」(すなもちかせい)が開催され、城下の各町内が山車を引き、唄い踊りながら競って行列をしました。
中の棚の前身・東魚屋町は巨大なタコの山車で参加
当時の東魚屋町は魚市場の町だったので山車に選んだのは多幸にも通じるタコでした。さらに、屋台に乗った三味線などの囃子方(はやしかた)の演奏する音楽に合わせて、タコの仮装をして踊りながら山車を引いたようです。
[ 本文 ] 「作りもの 大たこ 長サ四間 若連中 蛸の手おとり 六十人 提屋台 はやし方 芸子 十人余り」
[ 訳文 ] 作り物は長さ4間( 約180 ㎝ ×4=約7.2m) の大タコ 若者60人がタコの手踊り、提屋台に囃子方と芸子が10人余り乗っていた
※堤屋台は、描写のようにいろいろ飾り物が吊り下げられた屋台のことだったと思われます。
※左端にある「ラシャ」は、幟旗の素材で「羅紗」のことだと思われます。
協力:広島市郷土資料館
平成27年、中の棚商店街有志が大タコ山車を再現!
平成27年(2015年)、平成の世に復活した第10回砂持加勢祭りに中の棚商店街有志がタコ山車を作成して参加し、広島城周辺を練り歩きました。
平成のタコ山車は保管場所の都合で長さ1.2m。元祖の7.2mには遠く及びませんが、LED電球で光り、MP3プレーヤーで音楽も流れる最新テクを搭載しています。
なかのたな歴史散歩【六】
260年以上の歴史があり正一位稲荷大明神でもある中の棚稲荷神社
江戸時代の中頃、宝暦8年(1758年)にはあったと伝わる中の棚稲荷神社。元々は一軒の餝屋(かざりや)の個人的信仰の祠だったものが神社になったと伝えられています。
やがて、京都伏見稲荷の正一位稲荷大明神となり、「商売繁盛・地域安全」の守護神として地域の信仰を集めてきました。
神社と商店街が共同で街おこし
平成24年(2012年)から、中の棚稲荷神社を管理する立町町内会と中の棚商店街が協力して街おこしをしようと、毎年六月の神社例大祭に合わせて「中の棚運気を揚げん祭」を開催しています。
なかのたな歴史散歩【七】
江戸時代の地割図からコンピューター入力
江戸時代には各町ごとに切絵図があり、街路・水路に屋敷割り、間口・奥行、職業や税までが記されていました。
それをパソコンで読み取り、CADで図面化すると、見事に正確な図面になりました。
平田屋町(現在の本通1丁目)付近
現在の中央部商店街の配置と重なりました
城下町の町割りと東西に貫く西国街道を中心とした街のなりたちがよくわかります。
なかのたな歴史散歩【八】
広島の「グルメ」と「ファッション」を担う商店街へ。
昭和50年代始めまでの中の棚商店街は、電柱が乱立し道路も無機質なアスファルト舗装でした。お客様に気持ちよくお買い物を楽しんでいただくために、昭和58年(1983年)、乱立していた電柱を集約し、道路も人工石に改装するなど整備を行いました。
老朽化していた建物も次第に高層化され、ブティックやおしゃれな飲食店などの店舗が出店するようになり、中の棚商店街は”グルメ&ファッションの町”と云われるようになりました。
次の時代を見据えた商店街づくりを進めてきました。
近代的な商店街へ生まれ変わった中の棚商店街は、次の時代を見据えた新しい商店街づくりの必要性を感じ、さらに様々な改革を実施してきました。
中の棚商店街街路整備概略
昭和58年(1983年)
乱立していた電柱を集約し、出来るものは地下埋設とし、道路も人造石によるインターロッキング舗装に改装するなど整備を行いました。
- 昭和61年(1986年)6月16日
- 商店街の組織を「中の棚商店街振興組合」と法人に改組しました。
- 平成2年(1990年)
-
商店街CI計画を行い中の棚地域の歴史や役割を研究しました。
現状の商店街を分析して中の棚が商店街として担うべき役割や、
存在意義・姿勢、行動規範等「中の棚理念」を確立し
商店街ビジョン(将来像)を策定しました。 - 平成3年〜平成4年
(1991年~1992年) - 中の棚商店街の理念・将来像を具現化するための事業を設計しました。
- 平成6年(1994年)
- 電線・電話線・有線・NTT光ファイバー等の地下埋設工事を実施しました。
- 平成7年(1995年)
- オリジナルデザインの街路灯50基と、アーチ看板、街内放送設備を設置しました。
- 平成8年~平成9年3月
(1996年~1997年) - 中の棚商店街の道路を赤御影石等でカラー舗装しました。
数々のデザイン賞を受賞した街づくり
道路の中央は割石の御影石を蛇行させて敷き込み、車のスピードを抑えるとともに歩行者がゆったり散策を楽しめるようになっています。湾曲した御影石は川の流れを表しており、磨き石や魚のデザイン化された石が敷き込むことできらめく太陽のもとひかり輝く川面を表現するという意味も込めています。
次世代につながる魅力的な街になるように、広島の子供たちが描いた魚介類のイラストと敷石を産出した中国の子供たちも加わって、111個の敷石にイラストが掘られ街路に敷き込まれました。
交差点には中の棚のロゴを施し、波の波紋が街路全体に広がっていきながら商店街の連続性と統一性を演出しています。また、くつろぎ空間として中の棚の真ん中に位置する「露地」に路広場を設けました。かつて「露地」は子供たちにとって遊びと創造の場であり、親しみと触れ合いによって心かき立てられるものがあった場所でした。このみち広場を「ととろじぃ」と名付け、次世代を担う子供たちの参加を求めました。
中の棚のデザイン整備にあたり、江戸時代の中の棚には魚市場があり、「うおの棚」として親しまれていたことから魚をモチーフにデザイン化しました。また象形文字を用いて歴史と文化を表現するとともに、未来へ続くようにとの思いも込めました。
中の棚のロゴは交差点や街路灯の前にあしらわれ、魚のデザインは街路の中央部に位置する御影石をはじめ、子供の絵と合わせて540個の石に表しています。
街区の入り口4ヶ所には方位にそってその季節の魚の文字が布設され、中の棚らしさの中に遊び心を出しています。
受賞歴
- 「ひろしま街づくりデザイン賞」広島市
- 「まちなみ景観・景観づくり大賞」広島県
- 「ひろしまグッドデザイン賞(街路灯)」広島市
- 「看板・ネオン・ディスプレイの部 金賞」広島広告協会
グランドパーキング21を建設
平成11年〜平成12年1月(1999年~2000年)
組合理事3名により300台収容の自走式駐車場グランドパーキング21を建設しました。
街路灯50基をLED化
平成24年(2012年)
街路灯50基をLED化する工事を実施しました。
街路に防犯カメラを設置
平成25年(2013年)
街路に6台の防犯カメラを設置しました。
「運気を揚げん祭」を開始
街おこしイベント「運気を揚げん祭」を開始しました。
中の棚商店街と中の棚稲荷神社とが合同で街を活性化しようと、神社の例大祭に合わせて商店街のイベントとして「運気を揚げん祭」を開催し、相乗効果で街の賑わいを盛り上げていくこととなりました。
経済産業省「2019はばたく商店街30」に選定
令和元年(2019年)6月
経済産業省「2019はばたく商店街30」に選定されました。
広島市子育てオープンスペース「つばさ」と協力して、商店街としての子育て支援活動を実施して商店街を活性化したことを評価されました。
カラー舗装を全面改修
令和3年(2021年)
老朽化したカラー舗装を最新の半たわみ舗装にて全面改修しました。